2007年05月20日

百済最後の都 扶餘を訪れる

ようやく取れた日曜日休み。扶餘(ふよ、韓国の読みではブヨォに近い)という町を訪れることにした。
ここは、日本でもなじみの深い百済王国の、滅亡前の最後の123年間、都が置かれた場所で、百済関連の遺跡、遺物が見ものの古代ロマンあふれる町だ。そして、あの「白村江(はくすきのえ)の戦い」、そう、日本史の授業で必ず習って、しかもなぜか試験への出題率も妙に高かった、あの戦いの行われた場所なのだ。
交通はちょっと不便で、ソウルをベースにした旅行ではちょっと行きにくい場所だ。でも、天安ベースならば直通バスで2時間かからない。これはいいチャンスだ。

さて、当日。…思いっきり寝坊。

出発はすでに昼。こんな時間から行って大丈夫か、とちょっと心配したが、天安からのバスの時刻表を見る限り、かなり遅い時間までありそうだ。そこで、予定通り行ってみることにする。これがあとで痛い目にあう原因なのだが

バスはほぼ30分間隔で出ている。しかし、停留所についたのが出発時刻1分後くらい。すでにバスの姿はなかった。
念のため、次に来たバスに切符を見せてここに行くか?、と聞くとはじめは違う、という手振りをしていたが、停留所にいた係員となにやら話した後乗れ、という。
不安を覚えつつ乗ってみたが、広州のターミナルまでついたあと別の扶餘行きのバスに乗り換えさせてくれた。なかなか臨機応変な対応に感心。

バスはずっと田舎道を走っていく。低い山々の間に、農村が広がる風景だ。奈良盆地の南のほうあたりと実によく似た景色だ。

扶餘に入ってすぐ、なにやら古代装束の集団がいるのが見えた。バスを降りて、早速行ってみる。

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すると、泗門(ザビ門)前の広場を取り囲むように古代装束(当然、百済の装束だろう)を身につけた人々がずらりと並び、その真ん中で踊っている女性がいた。

どうやら、百済の王様に様々な芸人が舞を披露するというシチュエーションを再現しているようだ。

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女性の踊り子の舞

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二刀を持った、剣士の舞。後でわかるが、この剣、真剣らしい。

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3人組の女性が、扇子を持って舞う。

先ほどの剣士が、再び登場。今度は立てられた竹を次々と切っていくパフォーマンス

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でやー!跳び斬り。

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続いて、すれ違いざまにすぱすぱと。

後で知ったが、4月から11月まで、毎日曜日に行われる「百済大王出行」という行事のようであった。ただ、行列はいろんなところに出没するようで、今回ドンピシャで出会えたのはなかなか運がよかったようだ。

さて、改めて散策開始。
この町の観光施設は、日本語のガイドもしっかり備えられているようだ。案内所などのたびに、日本語のガイドがないか尋ねると必ず出てきた。

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特に、泗門そばのInformationでもらったガイド(写真の右端)は秀逸。パンフレットというより、本といってもいい内容だ。

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まず訪れたのは、国立扶餘博物館。
この博物館、庭に並んでいる石造物も、単なるオブジェではなく、立派な出土品であることがユニークだ。

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なんとなく、飛鳥に点在する石造物群を思わせるものがある。ほぼ同じ時期に、文化交流も盛んな同盟する国同士の都があったわけだから、それも当然なのかもしれない。ちなみに、明日香村と扶餘は現在姉妹都市だ。
ただ、飛鳥と違うのは、この町が滅ぼされた国の都であり、その後ずっと田舎であった飛鳥と違って、その上にそこそこの規模の町が成立していること。そのため、村のそこかしこに古い石造物や寺、古墳などが点在する飛鳥と違って、扶餘の街中で見ものは少ない。古い寺院や大きな遺跡は、みな市街地の外にある。そういう意味でも、あちこちからの出土品を集めたこの博物館は見物ルートとして外せないだろう。

展示は、日本語も含む4ヶ国語で行われているのがうれしい。
展示室自体はこじんまりとしていて、30分もあれば普通に回れてしまう。ただ、意外と地味。土器や、かわらの破片などの地味な出土物がかなり多く、百済のきらびやかな装飾品などを期待していると、ちょっと拍子抜けかも。

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その中でも、これはすごい!と思ったのはこの「百済金銅大香炉」(撮影はOKと言っていた)
百済の芸術品の最高傑作でこの博物館のハイライトだ。
日本でいうなら飛鳥時代に、これほどの物が作られていたのは正直驚き。確かに百済は、この時期世界でもトップレベルの技術を持っていたのは間違いなさそうだ。

パンフレットには載っていたものの、展示のなかったものもいろいろあった。特に、弥勒菩薩半跏思惟像(写真を見る限り、太秦広隆寺や、斑鳩の中宮寺のものとそっくり。おそらく原型になったものでは?)がなかったのは残念だ。

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博物館を後にし、市街地に戻る途中の定林寺跡に立ち寄る。かつてこの地域最大の寺院であったが、新羅・唐の連合軍に攻め落とされ、百済が滅亡した際に焼き払われ、今は広大な敷地の中に巨大な石塔のみがぽつんと残っている。
でもこの石塔、滅亡の際の焼け焦げた跡と、唐の武将によって「大唐平百済国」と刻まれた跡がそのまま残っている、なかなかすごいものだ。

さて、再び泗門へ。この裏に広がる扶蘇山(ふそさん)は、百済最後の砦である百済様式の山城、扶蘇山城があったところだ。

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この山、標高は100m程度なのだが、地形が複雑で広がりがかなりある。急いで歩いても、1時間はかかってしまう。地図に載っているのは主要な幹線ルートだけで、それ以外にもシングルトラック程度の枝ルートが縦横無尽に走っているようだ。雰囲気のいい道で、単なるハイキングとしても楽しい。
もちろん、山の中は、そこらじゅうに、遺跡や昔の土塁跡、様々な建造物が点在している。ただ、これらの建造物はもちろん当時のものではなく、時代考証に基づいた復元でもないことには注意。

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「半月楼」は、扶餘市街の絶好の展望台だ。扶蘇山のふもとの王宮から、大通りがまっすぐに伸び、市街地と扶蘇山の三方を白馬江、日本史で習うところの白村江、に囲まれている。確かに、これは守りやすい地形だ。ただ、追い込まれたら、思いっきり背水の陣になるような気も…

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これは落花岩の上に立てられた百花亭。この落花岩は百済滅亡の際に、多数の女官が敵の手にかかるよりはと自ら白馬江に身を投げた悲劇の舞台。その様子が多数の花が散り落ちていくようだったということから名づけられたそうだ。

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落花岩から、白馬江を見下ろす。ただ、この岩は確かに絶壁だが、ここから川に身を投げるためには相当なジャンプ力を要すると思われる。

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扶蘇山の白馬江側の急斜面を降りると、すぐに船着場に着く。
扶蘇山城縦断の後は、船で戻るのがお勧め。落花岩を下から眺めることができる。
そういえば、「白村江の戦い」がどこで行われたのかは、結局わからなかったなあ。特に、「白村江の戦い跡」のようなものがあるわけではなかった。

船は、10分ほどでクドゥレの船着場に着く。ここは昔もっと大きな港があり、大和や唐などとの交易の玄関口となったところ。
ところで余談だが、百済を韓国人は「くだら」とは読まない。「バクゼ」という表記が近いか。では、日本で言う「くだら」はどこから来たのか。これに関して解説しているものには出会えなかったが、この読み方の語源は、このクドゥレなんじゃないかと、僕は思った。クドゥレというのは「大きな国」という意味で、百済そのものを指す意味でも使われたということだから。

クドゥレ周辺は、整備された公園になっており、レストラン街にもなっている。
「クドレドルソッパプ」と日本語でも看板を出している店に入ってみた。

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サムパブ定食というのを頼んでみたら…、すごい量。これで一人前かよ。
海外を旅行すると、どこに行っても、日本人は小食だなあと思わされてしまう。(もっとも、そもそも完食する事は想定していないのかも)

さて、あとは帰るだけ、とバスターミナルに戻る。が…、天安行きのバスは今日はもうないよ、といわれてしまった。天安→扶餘のバスはかなり遅い時間まであることを確認していたので、帰りもあるのだろうと思っていたが、これは想定外であせった。
結局、泊まっているホテルのフロントに電話し、そのへんにいたおじさんとおばさんの助けを借りつつ、近距離バスで隣町の鉄道駅に出て、なんとか電車で帰ることができた。もうちょっと計画的に動くべきだったと反省。

もしも、次に来る機会があれば、もっと時間に余裕を持って来て、町の周辺の遺跡類を巡ってみたいものである。
posted by S.A at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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